平良新助の略歴

平良新助略歴(平良新助伝より)
1876年(明治 9年) 今帰仁村謝名に生まれる(9月4日)
1887年(明治20年) 今帰仁小学校に入学。翌年尋常小学校への改称と校区の変更により天底尋常小学校に通う。
1891年(明治24年) 名護にある国頭高等小学校へ入学
1894年(明治27年) 首里にある沖縄尋常中学校に入学
1896年(明治29年) 当山久三を度々訪れ親交を深める。
学業を投げ打って謝花昇の門下に走り、民権運動に若い情熱を注ぐ。
1897年(明治30年) 間切総代として開墾反対運動を展開し、勝利する
1898年(明治31年) 同郷の兼次ナベと結婚し一子を設ける。
1899年(明治32年) 沖縄初の移民団がハワイへ出発。
1900年(明治33年) 妻子を残し上京。英語を学ぶ。
1901年(明治34年) 移民の実情調査のためハワイに渡る。
1903年(明治36年) 第2回移民団の定住に奔走し、沖縄移民の基礎を確立する。
兼次なべと離婚。長男一三は祖父母が育てる。
1904年(明治37年) 米本国サンフランシスコに渡る。
今帰仁村民を中心にした第三回移民団がハワイに向け出港。諸般の事情でハワイに渡れずフイリピンへ。マラリアで多数の死者を出す。
1908年(明治41年) 移民後初めて帰省。両親の健在と長男一三の元気な姿に勇気づけられる。
1913年(大正 2年) 再び帰郷し、羽地村の金城つると再婚。
1914年(大正 3年) 新妻のつると長男一三をともないアメリカに戻る
1919年(大正 8年) カルフォニア州でレストランを経営。日用雑貨、食料品等一般商品の販売も手掛ける。日本人会、沖縄県人会長などの要職に就き、社会的に幅広く活躍。
1924年(大正13年) 海外協会設立のため再び帰郷。官民一致して設立総会を開く。帰米後沖縄海外協会支部長や理事を務める。
1940年(昭和15年) ロサンゼルスに転住。目抜き通りでホテルと雑貨店を経営。
1941年(昭和16年) 日米開戦
1942年(昭和17年) アリゾナ州ヒラの砂漠にあった日本人収容所で5年間の抑留生活を送る。
1945年(昭和20年) 終戦によって収容所から解放。ロサンゼルスに戻り再びホテルを開業。
1953年(昭和28年) 50有余年の渡米生活を打ち切り帰省。
荒廃した郷土に立って次の琉歌を詠む。
『七くるびくるで ひやみかち起きて
わしたこの沖縄 世界にしらさ』
1959年(昭和34年) 乙羽山周辺50万坪の借用書を村に申請。村議会の反対で却下。
1964年(昭和39年) 米寿祝を返上し90歳の高齢で東南アジア視察
1965年(昭和40年) 移民の功労者として琉球新報賞を受賞。
1970年(昭和45年) 長寿を全うし94歳で死去。