平良新助の生い立ちと業績

平良新助の生い立ちと業績
はじめに、私たちが郷土の偉人として誇りにしている平良新助の生い立ちと業績について紹介します。(以下「新助」と呼び、他の人物も敬称は略します)
新助は、今から138年前の明治9年、今帰仁村越地に生まれました。明治27年、首里にある沖縄尋常中学在学中に謝花昇や当山久三らの考えに感銘し、中学校を中退、自由民権運動を担う一番若い同志として活動を始めました。
明治30年、郷里の今帰仁村に戻り総代を務めていました。そこで、奈良原県政が推し進める杣山の開墾強行に対し、27名の総代とともに交渉団体を組織して今帰仁村における反対運動を激しく戦い、この運動を勝利に導き、杣山を守り抜きました。
このころから、民権運動と共に海外移民の重要性を唱える当山久三の考えに共鳴し、海外雄飛の夢を抱くようになりました。
明治33年、海外雄飛に備え上京し、英語を学んでいた新助に対し、当山久三から第1回ハワイ移民団の実情調査と安否確認を依頼され、翌明治34年ハワイに渡航しました。移民団と耕地労働を共にしながら、移民団の動静を把握し、ハワイ移民の優位性を当山久三らに報告しました。
さらに明治36年、当山久三率いる第2回ハワイ移民団を現地で引き取り、様々な困難を持ち前の英知と行動力でハワイに定着させ、ハワイ移民の基礎を確立させました。
移民団の定着を見届けた新助は、明治37年、兼ねてからの念願であった米本国へと移住します。サンフランシスコを振り出しに様々な苦労を重ね、遂にはロサンゼルスでホテルを経営し成功を収めています。経営者として活躍する傍ら日本人会・沖縄県人会などの要職を務めるなど移民団の生活と地位の向上に献身的に活動しています。
大正13年、移民保護を目的とする海外協会設立のため帰省し、昼夜を問わず奔走して、官民一致の設立総会を県議会で開かせることに成功しました。
昭和28年、52年に渡る渡米生活に別れを沖縄に戻ってきました。そこで荒廃した郷土の復興に立ち上がる人々の姿と、半世紀前に当山久三氏が移民を声高に叫び胸に描いた沖縄人の姿を重ね合わせて詠んだ一首が『七転び転び ひやみかち起きて わしたこの沖縄 世界に知らさ』のひやみかち節の一節です。
昭和29年、海外協会創立30周年記念式典で琉球海外協会の稲嶺一郎会長から海外協会設立の功績に対し感謝状が授与され、昭和43年に開催された海外移住百年祭では、沖縄の国際的声価を高めた功績により琉球政府松岡政保主席から移住功労賞が授与されています。
老後も、開拓魂や海外雄飛の気概は衰えることなく燃え盛っていました。その一端を紹介しますと
80歳を過ぎで、今帰仁村の名峰「乙羽山」にロープウエイを通し、農業と観光の拠点にしたいと30年契約で村有地の借用を申請しています。
さらに90歳になった新助は、東南アジアを旅してまわり、村の若者たちにこれからは東南アジアの時代だと東南アジアへの雄飛を説くなど、進取の気鋭・開拓魂は衰えることを知りませんでした。
そのような新助も昭和45年94歳の長寿を全うし、あの世へと旅立っていきました。

≪平良新助と移民の関わり≫
明治30年ごろの沖縄は、奈良原県政の圧政に対し、謝花昇や當山久三など民権運動の活動家が激しい抵抗運動を各地で繰り広げていた。新助は、その民権運動の一番若い同志としてその中にいた。一方、當山久三は、杣山開墾反対運動など民権運動を進めながらも、沖縄の人口増加と食糧問題にも強い関心を払っていた。それは、琉球王国時代の有名な政治家・蔡温が「狭い沖縄で食料を賄いきれる限度は30万人程度である」と人口増加と食糧問題について古くから警告していたのを知っていたからである。当時の沖縄の人口は既に40万人を超え、食料不足は深刻な状況に陥っていた。當山は、ウチナンチュを海外に移住させる以外に解決の道はないと考え、海外移住の取り組みを本格的に取り組むようになっていた。
いつかは自らも海外に雄飛し、一旗揚げてみたいと言う夢を持っていた新助は、次第に海外移民に対する思いを強くしていった。移民に備えて英語力を身に付けるため一人で東京に行き、英語学校に通うことにした。
新助が英語の勉強に励んでいた明治32年、當山は、遂に第1回移民団27名をハワイに送り出していた。しかし、ハワイ到着後の移民団の様子が全く伝わってこないのである。これは、移民のほとんどが貧しい家庭の出で、学校に行けず文字を習っていないため、手紙が書けなかったからである。移民団の消息が全く伝わってこないため、村々では様々な噂が飛び始めていた。移民はハワイで虐待され大変な苦労をしている、もう生きていないかもしれないなどのデマも流れた。このような状況なので第2回移民団を募集しても移民が集まらず、移民を送り出す事業は早くも行き詰っていた。
困り果てた當山から東京にいる新助に手紙が届いた。ハワイに渡って移民やハワイの様子を調べて来て欲しいと言うのである。海外に出るための準備を進めていた新助は、当山の頼みを喜んで引き受け、明治34年遂に、ハワイへと旅立っていった。
ハワイに着いた新助は、早速オアフ島エワ耕地に第1回移民団の団長を訪ね、ハワイに来てからの様子を聞いた。それによると契約移民として働き始めた最初の頃は、自由もなく、ひどい生活環境だったこと、休みもなく長い時間働かされ続けていたと言うことである。それでも、農村出身の移民たちは、たくましく働いていたが、農業経験の乏しい首里・那覇の人たちには、今にも挫折しそうになっていたそうである。しかし、ハワイについて三か月後に、大きな転機が移民団に訪れた。1900年(明治33年)ハワイがアメリカの属領になったため、移民の身分が、契約移民から自由移民に変わったのである。奴隷のように扱われていた契約移民から、何処でも自由に出かけ、働くことのできる自由移民に変わったのである。新助がハワイに渡ったころには、第1回移民団26名は既に自由の身になってハワイ全土やアメリカ本国に散らばっていった後であった。
新助は、移民団の様子を沖縄にいる當山に知らせた。さらにハワイの自然や風俗、習慣等についても調査を進めていった。調査のための旅費や生活費を稼ぐため、砂糖耕地で働き続けた。
第1回移民団やハワイの様子が、新助によって次々と伝えられてきたことで、移民に対するウチナンチュの考えも大きく変わっていった。移民したら豊かな暮らしを手に入れることができるかもしれないと考えたウチナンチュは、當山を信頼するようになり、海外移民を希望する者が増えていった。
そんな中、新助は、「移民を進める貴方が現地を知らないでどうしますか。ぜひハワイを見に来て下さい」とハワイに来るよう頼んだ。頼みを受けた當山は、出発前に「いざ行かん われらの家は 五大洲 誠一つの 金武世界石」の碑を建てて明治36年、金武村青年40名を率いてハワイに旅立って行った。
ハワイに着いた後當山は、ハワイの実情調査や英語の勉強をするため移民団から離れ、移民団の世話を新助に託した。新助は、第2回移民団の働くホノカア耕地に出かけて行った。ホノカア耕地は雨が降らず、飲み水にも不自由するようなひどい場所であった。間もなくして下痢などの病気が広がっていった。新助は、砂糖耕地の地主と他の耕地に移るための話し合いを進めていったが、認めさせることができなかった。このままでは病気で死ぬ者が出ると考えた新助は、移民団を救うには夜逃げするしか方法はないと考え、移民団揃って夜逃げすることにした。ホノカア耕地から逃げて一行がついたところは、ビホヌア耕地というところである。しばらくここで働くことにしたが、ビホヌア耕地はホノカアとは全く逆に雨の多い地域であった。1ヶ月もしないうちに脚気を患う者が続出した。病人の数は増えるばかりである。仕方なくオオラア耕地の岩崎キャンプに移って働くことにしたが、ここも雨が多く、健康を悪くするだけであった。ハワイについて以来、悪天候と病苦に悩まされながら頑張ってきた金武健児も、さすがに弱ってきた。そこで新助は、第1回移民団が働いたエワ耕地に移ることを進め、みんなで移住することにした。
移るに当たっては、旅費の確保や人頭税の支払いなど様々な難問が出てきた。この難問も新助の頭の良さと行動力で、資金や人頭税支払い証明書などをかき集め、無事エワ耕地へ全員を移住させることに成功したのである。
エワ耕地は、気候も良く、食物も豊富だったので病気も回復し、いよいよ金武健児が力を発揮してバリバリ働くようになり、生活も豊かになっていった。
新助は、第2回移民団と苦労を共にしながら、移転問題の解決、就職の世話、読み書きの指導などを献身的に行い、エワ耕地で移民団に安定した生活を送らせることに成功したのである。
第2回移民団の定着を見届け、ハワイ移民はもう大丈夫だと確信した新助は、アメリカ本国へ渡ると言う夢を実現する時が来たと感じた。
明治37年、新助は遂にハワイからサンフランシスコに渡った。皿洗いをはじめ、コック、バーテン等様々な仕事を転々としているうちにニューメキシコに来ていた。朝4時から夜9時まで働き通した生活を2年間続け、お金を貯めた。貯めたお金で広い土地を買い、家を建てた。土地を持つことは、好きな時にどこにでも出かけられる権利(市民権?)も手にすることであった。新助は、沖縄に行こうと思えばいつでも行ける身分を手にしたのである。
大正8年、メキシコ国境に近いブロレー市に移住し、レストランを始めた。店は大いに繁盛し、大勢の使用人を雇うまでになった。日用雑貨や食料品なども販売するなど幅広く商売を始めていった。
昭和15年教育に熱心な新助は、子供たちに良い教育を受けさせようとブロレー市の店を売り払い、カルフォルニア州最大の文教都市であるロサンゼルスに移転してきた。新助はここの目抜き通りにホテルを建て、雑貨店の経営を始めた。
ロサンゼルスに移転した翌年、太平洋戦争がはじまり、アリゾナ州ヒラ砂漠の捕虜収容所に家族と共に収容された。焼きつくような砂漠での生活はつらく・苦しく・言葉では言えないほどの厳しさであったが、家族と一緒に歯を食いしばって耐え抜いた。
昭和20年、終戦によりロサンゼルスに帰ることが許された。ロサンゼルスに戻った新助は、今度も持ち前の粘りと頑張りで、再びホテルを建てた。経営するニューヨークホテルは、ロサンゼルスでも指折りのホテルになっていった。

≪移民の生活と社会的地位の向上に奔走した平良新助≫
大正8年新助は、カルフォルニア州ブロレー市に移転した。ここには、日系人の農家が多く、その中で沖縄県人600家族が農業を経営していた。日本人の経営するホテル、商店、飲食店等も軒を並べて賑わっていた。新助は、この日本人町でボーイ時代の経験を生かしレストランを始めた。日本人の多い好条件に恵まれ、新助の努力と信用で、店はたちまち繁昌するようになった。そのうち、大勢の使用人を使うようになり、日用雑貨、食料品等の販売も手掛けるようになった。
その傍ら、日系人の生活と社会的地位の向上発展のために尽くす新助の姿があった。いつしか日本人間で信頼が高まり、日本人会、沖縄県人会の会長やその他の要職について活躍していた。
一方、相変わらずの食料不足で日々の生活に困窮していたウチナンチュは、第2回ハワイ移民団の定着で、移民熱は一気に高まり、ハワイ以外にも北米やその他の地域へも活躍する場を求めて移民する人々が増えていった。明治40年頃には、日本国内でも有数な移民県になっていた。
しかし、移民の募集はこれまで民間会社や斡旋業者によって取り扱われており、業者間で移民の奪い合いが激しくなり、幾多の弊害が生じて、渡航者を悩ましていた。移民保護を目的とする海外協会の設立が県内外で強く叫ばれるようになっていた。
そんな折、北米沖縄県人会で中心的に活動していた太田鎌戸、奥武朝道が日本本土や沖縄を視察するため大正11年、沖縄に戻ってきた。二人がみた沖縄は、海外で暮らす同胞の生活と比べあまりに貧しく燦燦たる状況であった。沖縄県民の窮状を救うには、沖縄県民をさらに海外に雄飛させなければならないことを痛感していた。そのためにも、海外協会の設立が急務であることを再認識し、官民有志に働きかけたがその実現を見ないままアメリカに帰って行った。
アメリカに戻って後も、太田は海外協会設立のため活動を続けていた。そんな折、平良新助が沖縄に帰省することを耳にした太田は、平良新助を訪ね、新助に海外協会設立のために奮闘して欲しいと頼み込んだ。
大正13年、沖縄に戻った新助は、寝る間を惜しんで役人や政治家、実業家など様々な分野で活躍している人々を訪ね、海外協会の必要性を説いて回った。この活動が実を結び、10月15日遂に県議会において海外協会設立総会を開かせることに成功したのである。海外協会設立により、安心して移民ができるようになり、海外移民はさらに拡大していった。
アメリカに帰った後、新助は沖縄海外協会支部長や理事を務めるなど沖縄県人の海外発展にさらに大きな役割を果たしていった。

≪戦後沖縄の復興に尽力した新助≫
アメリカでの移民生活を通し新助は、様々な困難を持ち前の英知と行動力で乗り切り成功を収めた。また、移民社会の生活の向上と発展に尽力するうち組織を形成し動かしていく力や折衝力も身に付けていった。この新助の英知と行動力そして組織を動かす力が、戦後沖縄の復興に大きな役割を果たすのである。軍人として沖縄に駐留していた息子の東虎の存在も沖縄と新助をつなぐ大きな力となった。特に沖縄の統治を円滑に進めていきたい軍政府と沖縄の戦後復興を急ぐ民政府との間をつなぐために果たした役割は特筆すべきものがある。郷土の復興と経済振興を図りたい民政府は、軍政府に様々な要望を提出したいのであるが、書類や契約書の作成など経済活動や文化の違いが大きな障壁となって立ち塞がっていたのである。そんな折、息子の東虎を通し北米海外協会の役員などを努めていた新助の存在を知り、新助に北米在住者からの資金援助の要請や、軍政府との折衝などの依頼が次々に舞い込んできたのである。新助は、すぐに動いた。北米にいる関係者に沖縄からの要望を次々に伝えていくと共に、軍政府との折衝にも一役買った。
その一端をここで披露したい。当時、沖縄民政府にいた當山正堅から新助に届いた一通の手紙がある。そこには、戦争で沖縄が被った戦災が書きつづられていた。それと同時に
復興事業が思わしく進まないためもがいていること
食料も主食の材料には不足がないが、たんぱく質や食油が欠乏して栄養失調の傾向にあること
街灯用の石油や石鹸、歯ブラシ、手拭のごとき日用品がなくて困っていること
アメリカ兵の中には沖縄人に対する理解がなく、無謀な行動に出る者が相当数いて困っていること
一日も早く平和会議が成立し、アメリカの立派な政治家や宣教師が大勢来て指導してくれることを待っていること
などの要望が記されていた。さらに、在米外国伝道協会が救いの手を延べていることに対する感謝と、沖縄救済連盟の幹部に対し沖縄赤十字社と赤十字病院設置のための資金援助についても新助から伝えて欲しいとの要望も書き添えられていた。
この手紙を受け、新助は沖縄の復興のために精力的に活動した。
これら、ハワイやアメリカ本土など海外にいる同胞からの援助について元沖縄県知事太田昌秀は、那覇出版社「季刊沖縄」で「戦後壊滅的打撃を被った沖縄を物心両面から支えたものも移民先からの惜しみない支援であり、当時の沖縄県歳入総額の66%に相当する海外からの送金なくして沖縄県の復興と今日の発展は考えられない」と述べている。
沖縄の窮状を見かねた新助は、昭和28年ロサンゼルスのニューヨークホテルを長男一三(かずぞう)に譲り、52年におよぶ移民生活を終えて沖縄に帰ってきた。沖縄に帰ってきた新助は、直接軍政府と民政府の間に立ち、郷土の復興に力を尽くした。
また、帰郷して荒れ果てた沖縄を見たとき、半世紀前當山が胸に描いていた「世界に雄飛していくウチナンチュの雄々しい姿」と復興に立ち向かう「何事にもくじけず、逞しく立ち上がるウチナンチュの姿」を重ね合わせ、ウチナンチュを勇気づけ、励ますために詠んだ詩がかの有名な「七転び 転でぃ ひやみかち 起きて わしたこの沖縄 世界に 知らさ」のひやみかち節である

≪結びに≫
新助を民権運動や海外移民・移民社会の生活向上、戦後沖縄の復興に突き動かして行ったのは、常に自らを導いてくれた當山久三の存在があったからである。新助は、心から當山久三を尊敬し慕っていた。その思いの深さを表す事例が、7月26日今帰仁村で開かれた「移民の先駆者たち―平良新助と當山久三」のシンポジウムで金武町議会議員の嘉数義光から次のように語られた
金武町では、大正13年沖縄で初めての鉄筋コンクリートつくりの学校、金武小学校が完成した。この総工費の20%が海外同胞の基金によるものであり、平良新助が中心となった集めたものである。また、昭和6年、当山久三銅像建立費用、その裏手に立つ記念会館建設費用など北米からの寄付金を集めに尽力したのも新助であった。さらに、戦後、戦争中に撤去された銅像の復元に尽力し多額の寄付を行ったのも新助だったと言うことである。新助の當山久三に対する思いの深さが伝わるエピソードである。